昔の雑誌を読んでいたら「キラーシクマ」というレスラーが出てきました。
ハワイ・アメリカで活躍した日本人初のヘビー級レスラー。
「JUJITS MASTER」柔術マスターとしてアメリカの新聞で紹介されていたそうです。
今回はキラーシクマ選手を調べてみました。
よければお付き合いください。
志熊 俊一選手の紹介
本名は志熊俊一。
明治38年生まれ(1905年)
同い年の有名人は
- 福田赳夫(元総理大臣)
- 加藤文太郎(登山家・「孤高の人」の主人公)
完全に歴史上の人です。
生まれたのはハワイですが、5歳で日本に引っ越し。
学生時代に柔道に出会い、その後教師となります。
柔道のコーチとしてハワイの日本人学校に招かれ、現地のプロモーターにスカウトされてプロレスラーとなりました。
身長180㎝ 体重92㎏
当時としては破格のサイズです。
当時の日本とアメリカ
ネットで調べた一番古い試合は1934年ホノルルでの試合。
1940年までアメリカで活躍していました。
当時の日本とアメリカは戦争に向かって進んでいました。
歴史と照らし合わせてみます。
1930年 イギリス、日本、フランス、イタリア、米国の間で、ロンドン海軍軍縮条約締結。
志熊さん 柔道のコーチとしてハワイの日系人学校に招かれる。
1931年 柳条湖事件。満州事変。中国とバチバチの関係になる。
志熊さん 柔道5段を取得。スカウトされプロレスラーになる。
1933年 国際連盟脱退通告。世界から孤立する日本。
1934年 志熊選手vsジャック・マニュエル選手の試合がホノルルで行われる。
1937年 日本軍が南京占領。
志熊選手vsルー・デーズ選手。3試合行い志熊選手の1敗2分け。
1940年 志熊選手が日本に帰国。
結婚しアメリカに渡ろうとするが、日米関係悪化の為に朝鮮に渡る。
教師として働きだし、プロレスラーを事実上の引退。
1941年 太平洋戦争開戦。
1945年 終戦。志熊さんは終戦とともに日本へ帰国。
教師となり、その後プロレスとは関わっていません。
当時の歴史と照らし合わせてみると、レスラーとして活動することは困難な時代です。
プロレスラーとしてアメリカで活躍しているのに、日本がアメリカと戦ってしまう。
自分ではどうすることもできない問題。
もしも日本が戦争をしていなかったら。
ジャイアント馬場選手やアントニオ猪木選手の大先輩として、栄光を浴びていたのかもしれません。
そんな感じで。
でわ!